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2013年9月12日木曜日

609:【戯れ言】正しさの判断基準とは?の巻

少しばかり思うところがあるので、これまでと全く趣向を変えて、今回は真面目な話をしてみようと思う。

まぁ「こんな宣言で始まるこのブログ自体どうなんだ?」と思わなくもないんだが、今度ばかりはこっちも真剣だということはご理解いただきたい。

また、少々抽象的な表現を多用することになると思うが、こちらの都合もあるので、その点についても予めご了承いただきたいと思う。


唐突ではあるんだが、いまあなたは、とある事象に対してその正否を判断する場面にあるとしよう。

そしてあなたは、「それが正しい」と判断を下すことになる、と仮定してみる。

その時、あなたが「これは正しいっ!」とする根拠、判断基準ってのは何だろう?

  • 全員じゃないけど、ほとんどのみんながそう判断してるから?

  • 少数意見だが、あなたが信頼をおく人がそう言ってるから?

  • 過去の歴史がそれが正しいということを物語っているから?

  • 統計的にも常識的にもそれを選択するのがベストだから?

  • 「そもそもこのオレがそう言ってるんだから間違いない」って自信ありげに思ってるとか?

これらのどれかに思い当たっただろうか?

ボクが考えるに、たぶんきっと、正解は最後の「自分が正しいって思ってるから」ってヤツなんだよ。

ある事柄を「正しい」とする判断基準ってヤツが、どんな手段や方法や言い分であれ、結局は最終的に自分が正しさを導き出すために最適だと考えている方法が正しいと思い込んでるから、その結論なり結果が正しいって思ってるってことなんじゃないか?

「正しいとする判断基準は、己が正しさを判断する方法が正しいと思うことだ」っていうと、なんだか哲学的な話になってしまうんだが、恐らくはこの字面の通り、そういうことなんだと思う。

まず、「周りのみんなの言ってる事」を正しさの判断基準としたのは、あなた自身だよね?

「信頼してる人」ってのは、あなた自身が信頼してるってだけでしょ?

ってことは、そう決めたのはあなた自身なんだよね?

その「みんな」や「信じてる人」が言うことを信じるのはあなただけかもしれなくて、他の人がその人たちを信頼に値する人と判断するかどうかはわからないでしょ?

歴史がそう言ってるとか、統計的にそうだとか、結局は大抵の場合がそうなるからというだけ、実は今回のケースがそれに当てはまる確率が比較的高いという推論であって、必ずそうなるとも限らないって話でしょ?

それもやはり、あなた自身が高い確率の方を選んだんじゃない。

なんだかんだ言って、結局は自分が「そうしたい」とか「そうなりたい」とか「そうであって欲しい」とかっていう勝手な願望が後押しして「これが正しい!」と判断してるんじゃないの?


あなたが「正しいっ!」って思ったことでも、他人から見たら「そうかなぁ?」ってなることもあるんじゃない。

「そうかなぁ?」って思ってる人は、別の尺度で物事を測っているんであって、その結果あなたの言う言葉や考え方に確信が持てないでいるんでしょ?

「なんであいつは俺の言うことをわかってくれないんだ?」って、そんなの当たり前じゃない。

その人は、あなたが思っているほどあなたのことを正しいと思ってないんだから。あなたは自分で思ってるより、他人からはそれほど信用されてないってことなのよ。

だけど、そんなに落ち込む必要はないと思うよ。

だって、そもそも最初から他の人はあなたとは「正しさの判断基準」が違うに決まっているじゃないか。

あなたはあなたで、自分が正しいと思う道を行けばいい。「他の人も一緒に付き添ってくれないと独りで寂しい」とか、そんな子供染みた事は言いなさんな。

何処かで突然ばったりとまた出会うこともあるだろうから、とりあえず今は自分の信じる道を行けばいいのさ。

他の道を行く相手だって、まさか右も左も分からない幼子でもあるまいし、一事が万事他人に判断を仰がずとも、己の中で判断することができるでしょう。

赤ん坊だって気に食わない事や物に対してはイヤイヤしたり泣きわめいたりするんだから、それが周囲からみて利己的で目に余る行為であったとしても、彼や彼女の中では「何が自分にとって正しいのか?」ってことを自ら判断してるってことになるんじゃないだろうか。

それに、あなたは相手の考えることが手に取るように判るワケでもないでしょ?己の意のままに相手を操る術なんて、あなたは持ち合わせていないでしょ?

相手に過度な期待をするのはあなたの勝手だが、それを相手に押し付けるのはお門違い。

誰かの言った事をあなたが信じるのも勝手だし、信じないのも勝手。

あなたが誰かに救いの手を差し伸べるのも勝手だし、それを受け止めるか受け止めないかは相手の判断だから、例え受け入れられずとも怒ってはいけないんじゃない?

世の中にはね、正しい事なんて人の数ほどあるんだよ。

だから、やみくもに相手にアレやコレやと押し付けたり、頼まれてもいないのに余計なお世話を焼くのは、なるべくならやめておいた方がいいんじゃないかな?って最近よく考えるんだよね。

それにもまして、相手に何かを強要したり、「あいつは間違ってる!」なんてことを口走ったりした日にゃ、そりゃあ大変な事態になることは目に見えてるじゃない。


「これが正しい!」とか「それは間違ってる!」と断言するには、そこに何らかの根拠が必要になるからね。

どうしても自分の主張を受け入れてもらいたいのならば、相手に疑問を抱かせる暇を与えたり、隙を見せたりしちゃダメなんだよ。あらかじめ完璧な論理構築をしておかないと。

自分がそう思う根拠を語るにしても、大多数の人を納得させる(全ての人を説き伏せるなんてのは理想だけどインチキくさいし、そんなの不可能だからあえて「大多数」としてる)だけの理由=隙のない完璧な理論構築が必要になるだろう。

もしくは、例えばその根拠が希薄なものだったとしても、それさえも正しいと魅せるための別の要素=装飾とか演出などの付加的要素を、さも最初からそこにあったが如く自然に振る舞えるだけの技量が必要になる。

己の主張が正しいと声高々に宣言するには、それなりの苦労や覚悟が付きまとうもんなんだよ。多くの事柄を経験するとか、長い時間が根拠になる場合もあるのかな。なんか薄っぺらいけどな、それも。

どんなに頑張って主張しても相手が思ってるほど信じてくれないのなら、いっそのこと諦めることも必要だね。

うまくいかない原因を、それを信じない相手のせいにしてもいいんだけど、そこは謙虚に己の無力さを嘆いた方がいいんじゃないか?

だって、「あなたが正しいと思っていることが、他の人も正しいと思うだろう」と信じ込んでいるその行為そのものが、あまりにも滑稽であまりにも愚かな行為そのものなんだから。

そんな自分勝手な妄想は夢のまた夢、そもそもあなたが勝手に思い込んだだけにすぎない。

そう、そんなのはあなたが勝手に頭の中に思い描いただけの「幻想」なんだよ。

世の中にあなたが他人に対して「これが正しい」なんて断言できることなんてそんなにないんだよ。

それは「僕が(私が)正しいと思うこと」であって、他人に押し付けるようなものじゃないんだ。

あとは相手に任せなよ。「どうぞご自由に」って。

人それぞれ、正しいと判断した結果が異なるのは仕方がないんだよ。

育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めないんだよ。

人と人が常に理解し合えるなんてのは、虚飾に塗れたフィクションの中の世界だけで十分さ。娯楽としては楽しめるが、それがそのまま現実の世界に当てはまるなどと思っちゃいけない。

そんなもんを信じてるなんて、「なんて能天気な!」って思われても仕方ないぞ。

だいたい、そもそもここで繰り広げられたくだらない戯れ言(ざれごと)も、ホントに正しいのかなんて誰にも決められない。

「こんな戯言(たわごと)の何処に真実があるんだ?」って疑ってかかる方がよっぽどまともだと思うよ。

世の中に溢れてる事なんて、ほとんどがそんなもんばかりさ。

「それじゃあ、いったい何が真実なんだ?」って思うよね。

そんな時、まずは自分自身に問うてみるんだ。

「これは正しいのだろうか?」ってね。

あとはあなた自身が判断してくれ。

あなたが正しいと信じれば、それが正しいことを証明するためにいろいろと頑張れるでしょう。

その過程で何か得られるかも知れないし、まぁ無駄にはならないんじゃない?

きっとね、正解なんてどこにもないし、正解なんてどこにでもあるんだよ。

それがどこにあるのか、それもあなた自身が見つければいいさ。

ボクはボクで、ボクの信じる道を行くよ。

あなたはあなたで、己の信じる道を行けばいいさ。

これはそんな決別宣言であり、独り我が道を行くあなたへのエールなんだ。

(おわり)

※文中の「あなた」は個人を特定したものではありません。

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