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2013年9月13日金曜日

610:【戯れ言】盲目的に他人を信じるなんてのは愚かな行為だと思わないか?

今回も少々思うところがあるので、前回とも関連するテーマでお送りしたいと思う。

これでこのブログの購読者が激減する事になるかもしれないが、かなり重要なことだとボク自身が考えていることなので、しつこいようだがしばらくは続けさせていただくつもり。

例によって、何の事を指してこのような戯言(たわごと)を語ろうとしてるのか?そのボクの真意が非常に解りづらい抽象的な表現が多用されるかと思うが、そもそもただの譫言(うわごと)だと思ってくれても構わない。

ただ、ある意味これは『警鐘』だという事だけは理解しておいた方がイイと思うんだが。

まぁいいか。そんな事はどうでも......。


誰にも信頼のおける人がいるだろう。

ただ、その信じている人の全てを受け入れ全てを信じることができるだろうか?

あなた自身の考えが、寸分も違わずにその人と同調することなんてあり得るだろうか?

いやいや、そんなクローンみたいな話はまずあり得ない。だって、クローンだとしてもそこに至るまでの経験に多少の差があれば、少しは異なる別の人格を形成するはずなんだから。

その信頼するに値する人ってのは、そんなに立派な人なのかい?

その人の雰囲気や佇まい、その凛々しくも雄々しい姿に圧倒され、ただ単なる思い込みでその人の言動や行動を安易に認め、惰性で受け入れようとしている……そんなことはないのかな?

その者が説こうとする内容、その真意をよく耳を澄まして聴いてごらん。

本当にそれが信じるに値するか否か、それをキチンと見極めることが、あなたにとっていま最も重要なことなんじゃないだろうか?

その信頼するに値すると思しき者から放たれる言葉以外の要素、例えば声の大きさ、声の高さ、表情、華美に装飾された言葉そのもの、おかれている立場、役職の有無、年齢や性別、その他諸々の余計な要素に気を取られることのないよう注意して、その語り部の心の奥底にしかない本音ってヤツを確かめてみたくはないか?

というのも、このくだらない世の中には、箸にも棒にも掛からない、支離滅裂な一貫性のない主張を恥ずかしげもなく大声で叫ぶ輩が多いと思わないか?

己の正当性を確固たるものにせんがために、力強くただ一点のみに固執し、大声を張り上げて妄言を主張するその姿はまさに滑稽の極みだ。

偏り凝り固まった一方的な視点から語られるその言葉に、多少なりとも違和感を抱いたならば要注意だ。

字面ではわからなくとも、耳をよくすまして言葉と言葉の間(文章で言うところの行間)に隠れる本当の意味を考えてみるといい。

一度気づいてしまえば、その後にその者たちの言葉を見聞きするたびに、辟易する思いを抱くことになるだろう。

気づかないかも知れないし、反省などしやしないかも知れない。

ただ一度気づいてしまったら、違和感が違和感を増殖させ、それまでの思い違いを反省する事になるかも知れない。

余計な装飾や小難しい形容を付け足し、然もありなんと増改築を重ねた多重構造の論調でも、複雑怪奇ではあるが実は隙間だらけで脇が甘い時がある。

その薄っぺらで独善的な理論を掲げ、多種多様な業で根拠のなさを隠蔽しつつも、声高々に己の正当性を振りかざし息巻いている輩が跳梁跋扈するこの世界は一体なんなんだろうか?

多角的な視点からただ一つの真実を見出す力を「読解力」とか「洞察力」と呼ぶのに対し、執念深く自己の主張=単なる思い込みにしがみつき、偏った言動に終始するその姿をは何と形容したらいいんだ?

人の思考を妨げるような利己的な妄想は、頭の中でだけでやってほしいものだ、一切声に出さず、文字にも表さずに。

敵も味方もなく、ただ他人の言うことに耳を傾け、様々な意見を取り入れ噛み砕き、その一つ一つを精査・吟味し、今までよりもより良き回答を導き出さんと、喧々諤々と議論を重ね真理を導き出す行為、それこそがこれまで長く続けられてきた我々の叡智ではなかったのか。

そうやって少しずつ積み上げるようにして築いてきたのが、我々の歴史ではなかったのか?


ただの目立ちたがり屋で中身のない論調を繰り返す、害悪以外の何者でもない輩を心の底から信奉する浅はかな連中の何とも多いことか。

その者の唱える主張を注意深く聞いてさえいれば、その真意が何なのかと疑問を抱かずにはおれないというのに、一方では何も考えずにその甘い言動に単純に騙され信じこむ輩がいる。

独善的な態度ばかりが目に付く姿、その力任せの圧倒的なだけの論調、それを英雄の演説か何かと勘違いし、まくしたてるように迫りくる言葉の渦にただただ圧倒され思考停止する。

そしてあまり深く考えずに、ただただ盲目的にその情報を信じ込み、挙句の果てに無防備にも憧憬を抱く輩まで出てくる。

全くもって始末に負えない。

違うところでは、周囲の者が過ちに手を染めるのを見ているにも関わらず、再び同じ過ちを繰り返す者が続出している。

「自分以外の人間が多く支持するから」という信念のかけらもない理由だけ、「他の人もそうしているから」という何の根拠にもならない理由だけを錦の御旗とし、ただただ周囲に同化するのか?

情報が足りない?届いてない?

いやいや、情報は得ていても、何も考えずに鵜呑みにしてるだけだろう?

中身を吟味もせず、味も食感も関係なく飲み込んで、渇き切った心を満たした気になってるだけじゃないのか?

果たしてそれでいいのだろうか?

そんな愚行で得られた一瞬かぎりの精神の安寧はいつまで続くというのだろうか?

いったいその後にどんな結果を生むというのだろうか?

何も考えずに他人の思考に相乗りし、他人の言葉を借りただけの虚栄を恥ずかしいとは思わないのか?

イイところだけをつまみ食いし、刹那的に論じるその言葉には、ある一定の説得力を伴っている感はするものの、全体を俯瞰して眺めた時に解るブレまくる軸のなさに気づかないのか?

周囲のご機嫌を伺うような卑屈な態度でいるのは、アホらしいと思わないか?

そんなに独りになるのが怖いのか?

自分の知らなかった世界を語るその姿に歓喜し、「あれこそが理想である」といとも簡単に騙され勘違いし、挙句の果てにどこの馬の骨とも解らぬアカの他人を「己の神」と崇めてしまうのだから目も当てられない。

そもそも、人生の岐路を選択するような重大な決断を下す際に、その審判を見ず知らずの他人に委ねることは愚かな行為だということを知っておいた方がいい。

そして、この世にあなたが信じる神なんてものは存在しないということも理解しておいた方がいい。

もし万が一、この世に神が存在するとするならば……

そう、己の中の神はたった一人、自分自身だということを知っておいた方がいい。

それが『信念』って呼ばれるものだ。

全てを決めるのも、全てを諦めるのも、全てを受け入れるのも、それは全てあなた自身の責任で行うのだ。

誰に言われたからでもない。そう決めたのはあなた自身なのだ。

誰のせいでもない。そういう結果になったのはあなたが道を誤ったせいなんだよ。

誰に頼ろうが、誰を信じようが、誰に騙されようが、そういう結果になったのは全てあなたが決めたからなんだ。

一時期流行った「信じるも信じないも、あなた次第です」ってのは意外と正しいんだ。

「信じる者は救われる」ってのは本当なのかい?

「信じる者は、その足元を掬われる」ってこともあるんじゃないのか?

どんな場面においても、最終的に結論を出すのは、いつもあなた自身なんだよ。

己に降りかかる厄災を振り払うには、自分の手を使うしかないのさ。

待ってたって、そうそう親切ないい人なんて目の前に現れない。

今まで大丈夫だったのは、ただ単に幸運だったからなんじゃないか?

そろそろ自分の足で立ち上がり、自分の選んだ道を歩む時なんじゃないか?

「上司の言うことだから......」

だから何でも他人任せなのかい?

「先駆者がそう言ってるから......」

だから何も考えずに真似をするのかい?

「みんながやってるから......」

だから個性なんて微塵も感じられないのかい?

みんな同じ顔、みんな同じ態度、みんな同じ振る舞い、みんなで手と手を取り合って一緒に歩いて行きましょう......。

もうね、ボクには誰が誰だかわからないよ。

あなたはいったい何者なんだ?

(おわり)

※別に新興宗教を興して教祖の座に君臨しようとしているワケではありません。

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